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スターリン! ビッグ・モロ!

 ♪タタタ〜 タ〜タタ タタタ… ♪タタタ〜 タ〜タタ タタタ…
 思わずそうしたテーマで登場させたい(このシャレがわかる人は高齢者)
 ※1960年代にヒットしたテレビ映画『コンバット』のアバンタイトル。
 
諸口さんは、私にとって偉大な人!だから、ビッグ! ビッグ・モロ!
 
はじめにお断りしておきます。
熱心な諸口さんのファンや関係者の皆さん、ごめんなさい。諸口あきらさんの一部のことがらしか知らない私がこうしたサイトを作ったことをお許しください。
 
ずーーーーーっと以前にテレビ局のスタッフに諸口あきらさんと間違えられて以来、何か不思議な繋がりを感じてました。また、近畿放送の「日本列島ズバリリクエスト」や「オールナイトニッポン」の諸口さんの回のみ聴いてました。その程度のものです。
 
ここに書かれた内容で「間違ってたら、ごめんなさいよ」(モロさんから口癖のようによく聞いた言葉) 
 
このサイトの内容は出版物やウェブ情報および自分の僅かな記憶によるものです。

スターリン! ビッグ・モロ!

 ♪タタタ〜 タ〜タタ タタタ… ♪タタタ〜 タ〜タタ タタタ…
 思わずそうしたテーマで登場させたい(このシャレがわかる人は高齢者)
 ※1960年代にヒットしたテレビ映画『コンバット』のアバンタイトル。
 
諸口さんは、私にとって偉大な人!だから、ビッグ! ビッグ・モロ!
 
はじめにお断りしておきます。
熱心な諸口さんのファンや関係者の皆さん、ごめんなさい。諸口あきらさんの一部のことがらしか知らない私がこうしたサイトを作ったことをお許しください。
 
ずーーーーーっと以前にテレビ局のスタッフに諸口あきらさんと間違えられて以来、何か不思議な繋がりを感じてました。また、近畿放送の「日本列島ズバリリクエスト」や「オールナイトニッポン」の諸口さんの回のみ聴いてました。その程度のものです。
 
ここに書かれた内容で「間違ってたら、ごめんなさいよ」(モロさんから口癖のようによく聞いた言葉) 
 
このサイトの内容は出版物やウェブ情報および自分の僅かな記憶によるものです。

■故・諸口あきらさんのプロフィール

 1936年  

本名:南 弘人(みなみ ひろと)

5月21日 福岡県門司市(現・北九州市門司区)に生まれる 

多摩美術大学油絵学科を卒業。1960年代に、「茂呂 弘人」や「諸口 旭」名義で俳優として活動した。

1969年 

テイチクレコードより「涙を抱いて」で歌手としてもスタート。

1970年

映画とDJと歌、三足のわらじが続く。

1971年

仁川の阪神競馬場で死んだキーストンが忘れられず、名曲「キーストンブルース」を歌い始める。

1972年

お世話になったドラマの世界に別れを告げ、歌とDJが中心になってくる。

1973年

東芝EMIより「リターン・トゥ・パラダイス」を発売。

1974年

ニッポン放送「オールナイトニッポン」を2年間担当する。*注1

1975年

NHK・TV「バラエティー・世界史漫遊」を担当。*注2

ファーストアルバム「道行き」(東芝EMI)

1976年

エッセイ集「旅人の詩(たびにんのうた)<婦人生活社>を出版。

1977年

京都・北白川にライブの店「もろぐち邸」オープン。

1978年

東京12チャンネル「独占おとなの時間」を担当。高視聴率が続く。

1979年

大阪厚生年金会館でリサイタルを開く。

1980年

諸口あきら絵画展はじまる。

1981年

レコード会社を徳間音楽工業に移籍。「見知らぬ旅人」シングル、同名書籍発売(チャネラー刊)

1982年

海外生活が続く

1984年

「諸口あきらのイブニングレーダー」(毎日放送ラジオ)を担当。

1994年

「ラジオ屋稼業-諸口あきらのイブニングレーダー」(毎日放送ラジオ共著)出版<リブロ社>

2017年

9月10日 永眠

 
 

■故・諸口あきらさんのプロフィール

 1936年  

本名:南 弘人(みなみ ひろと)

5月21日 福岡県門司市(現・北九州市門司区)に生まれる 

多摩美術大学油絵学科を卒業。1960年代に、「茂呂 弘人」や「諸口 旭」名義で俳優として活動した。

1969年 

テイチクレコードより「涙を抱いて」で歌手としてもスタート。

1970年

映画とDJと歌、三足のわらじが続く。

1971年

仁川の阪神競馬場で死んだキーストンが忘れられず、名曲「キーストンブルース」を歌い始める。

1972年

お世話になったドラマの世界に別れを告げ、歌とDJが中心になってくる。

1973年

東芝EMIより「リターン・トゥ・パラダイス」を発売。

1974年

ニッポン放送「オールナイトニッポン」を2年間担当する。*注1

1975年

NHK・TV「バラエティー・世界史漫遊」を担当。*注2

ファーストアルバム「道行き」(東芝EMI)

1976年

エッセイ集「旅人の詩(たびにんのうた)<婦人生活社>を出版。

1977年

京都・北白川にライブの店「もろぐち邸」オープン。

1978年

東京12チャンネル「独占おとなの時間」を担当。高視聴率が続く。

1979年

大阪厚生年金会館でリサイタルを開く。

1980年

諸口あきら絵画展はじまる。

1981年

レコード会社を徳間音楽工業に移籍。「見知らぬ旅人」シングル、同名書籍発売(チャネラー刊)

1982年

海外生活が続く

1984年

「諸口あきらのイブニングレーダー」(毎日放送ラジオ)を担当。

1994年

「ラジオ屋稼業-諸口あきらのイブニングレーダー」(毎日放送ラジオ共著)出版<リブロ社>

2017年

9月10日 永眠

 
 

 
 

 <注1>
「オールナイト・ニッポン」の番組を担当されてた頃に「どどいつ」コーナーがあり、投稿した都々逸が採用されると、諸口さんの特製番傘がもらえました。
それに応募して番傘をもらったことがあります。今思うと大事にとっておけばいいものを若かったのでしょうね、「オールナイトニッポン 諸口あきら」と書かれた番傘を自慢げに雨の日は必ず持ち出してボロボロになるまで使いました。
 
その時のどどいつネタがコレです ↓↓
 
破れさるまた 水族館のパチンコ屋 亀も顔出しゃ玉も出る

 

 

<諸さんのラジオの思い出>
 近畿放送の「日本列島ズバリ・リクエスト」を聴いていた頃。小林旭さんのファンの私は旭さんの「口笛が流れる港町」が聴きたくてリクエストしました。当時は今ほど何でも手に入る時代ではなく、レコード店に行っても古い曲は入手困難な時代。だから、聴きたい曲は膨大なコレクションがあるラジオにリクエストしかないのです。それに諸さんは好んで小林旭さんの曲をよくかけてくれたものです。
 
そして、リクエストカードで名前が読まれ、リクエスト曲を「口笛の流れる港町」と書いていて、諸さんに訂正されました。「○○さん、『口笛が流れる港町』だわな…、何なに、なんか入ってるぞ」 
当時、諸さんが吸っていたタバコ・ジタンを同封していたのです。
 
諸さんは、パッケージを見て、フランス語風に『ジタ〜ン』と言いました。
実はそれまで諸さんは、ブランド名の"GITANES"を英語読みで「ジタニーズ」と発音されていたのです。このあたりも諸さんらしいなと思った思い出です。
 
GITANESのパッケージも今はすっかり新しくなり、私もすっかりタバコを止めました。

嘉門タツオさんも諸口さんの大ファンでした。 (12.27.2021追記)

諸口さんとゆかりの深いさる方から情報を頂きました。有り難うございます。
掲載が遅れたのを申し分けなく思っております。
 
では、♪ちゃらり〜ん…と、以下のリンクをクリックして下さい。
「嘉門タツオさんのオフィシャルブログ」が別ページに表示されます。
 

諸口あきら画文集「お月さまサエただひとり」より
  アニィの「おっ月さん」という言い方が好きです。

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