歌語り・7

<小野荘太郎劇場>
 
このページは過去に「帰ってきた渡り鳥」サイトで掲載されていたものを再編集したものです。

何処にあるのか「北葉樹」
2003/03/24

辞書を調べても「北葉樹」なんて、言葉もなければ 図鑑にそんな分類も樹木もない。
もちろん、作詞家の造語というわけだが、なんとまあ、イメージ豊かな造語であろう。
あたかもそんな樹が存在するかのようだ。しかもこの造語の優れているところは、視覚的な文字からではなく耳から入って来る「ホクヨウジュ」という音にもかかわらず
そのイメージが生きていることだろう。歌は音だからこれは重要だ。耳だけで捉えても、北国の似合う旭に、孤高にそびえ立つ凛とした「針葉樹」や「常緑樹」の姿が重なり音声なのに目に浮かぶような美しいヴィジュアル効果は一枚の鮮明なフォトグラフ。
それ自体で完結しているような題名とか単語が浮かんだ時、せっかくのそのイメージを壊さず作品や内容を考えるのは大変だと思う、つまり題に負けるようではいけない。
また、内容が勝ちすぎてもまずい。両者が釣り合ってこそ、この歌の完成といえる。作詞家としてはこんなGoodな言葉が浮かべば、喜びは悩みと同時にやって来るわけだ。
さて、これをスポイルさせることなく更にこれを補う一番ふさわしい概念はなにか?
作詞家は悩んだ結果、歌詞に与えたのもがすなわち「ベクトル」という骨格である。「ベクトル」とは簡単に言えば方向性をもった運動のことだが、その運動が描くのは放物線ではなく、ここでは直線である。「ベクトル」そのものは目には見えないからヴィジュアルとバッティングしないうえに、パワーを与えることが出来るのだ。

「ひとときも止めるな」「ひたすらな樹々よ」「豊かなまま」「立ち昇る」「伸びる」「明日へと走る」「続くかぎり」「背負ってく」と、それこそ力学的直線を強調させた歌詞は、全体をよく見るとこちらは極めて曖昧なイメージの連鎖であるにも関わらず不思議なことに、いや だからこそ「北葉樹」をパワフルに加速させてゆくのである。
加速と言っても芯の細いピーキーなものではなく確かなトルクを感じさせるみごとなアクセレーションだ。加えて「愛すべき胸」「熱き命」で「ベクトル」に血が通い、「何処」「夢の」でこの「ベクトル」にターゲットをあえて定めず、大きなスケールのまま「北葉樹」の結句に持ってゆく。いやお見事!まさに旭の樹「ホクヨウジュ」。
存在しないにもかかわらず一度聞いたら二度と忘れない言葉の秘密がここのある。
かなり難解「俺が憎けりゃうらみなよ」
2003/03/25

極めて難解な歌詞である。「なんかそんなような歌だなあ」くらいの把握でしょう。
実際どこから読み解いていいものやら、まるで謎解きのようなフレーズが列ぶ。どれも平易な表現のように見えるのだが、解釈となると3番とも2、3度読んだだけではどのようなシチュエーションを歌ったものか簡単に説明出来る人はそうはいない。
しかし、実はこれが遠藤実の作詞パターンなのだ。この人は実相を言葉で隠しながら歌詞の世界を紡いでゆく、つまり表現したいものは実は言葉の下に隠しているのだ。
「愛」という言葉は使うが、滅多に「恋」という単語を使わないのも彼の特長である。
このことから彼が何を最も大切にしているのかがわかる。「ラブ」よりも「アガペー」「ロゴス」よりも「パトス」なんていうと、なんか馬鹿みたいだが、要するに理想とプライドが高いということである。極言すれば「愛」と「情」という事になるだろうか。 世に「恨みを買う」状況は同性、男女、親子、同僚、夫婦は勿論、他人同士にだってそれこそ生き物がいる限りどこにでもありうるケースである、原因だって様々だ。
では「俺が憎けりゃうらみなよ」とはどんな関係の、世界のセリフなんだろうか?回りくどいので先に解答を言ってしまうと「師弟関係」それも「芸の世界」です。
「師弟関係」こそ厳しい「愛」と「情」がなければ成立しない世界である。
これぞと目をかけたカナリヤに心血注いでレッスンし、情熱こめて曲を書く、そうやって育てたカナリヤにスポットライトが当たり燦然と輝くことを夢見る、自分の養分を吸収してカナリヤは成長し、美しい声で歌う、でもまだ完全じゃない。
実力をつけたカナリヤは「師」に逆らい始める、それを咎めても鳥には翼がある。俺の手元で完全燃焼して欲しい、お前の為にもっと曲を書きたい。だからお前についキツイ言葉も吐いただろう、それも愛情からだ、でもこれは俺のエゴだろうか?
恨み辛みを捨てぜりふを残しカナリヤは、飛び去って行く。
別の世界で暮らせるわけがない、それは俺の責任か?だけどなんとかやっていけたらそれも悲しい。「俺が憎けりゃうらみなよ」そんなお前にしたのは俺なんだからな。
絶望的な人間関係を決して露骨にではなく表現させてこの人に並ぶ者はない。
こんな嫌なヤツみたことない「最后にもひとつ」
2003/03/27

旭にはそれぞれ誰もが持っているイメージがある、そこには多少の違いはあっても
旭ファンなら甚だしい誤差はないだろう。異論はあるだろが、一言で、と云われれば、「ごめんね」の旭、「ありがとう」の裕次郎と答える。
「歌にある」と云う訳じゃない。
つまりこの両方を同時に云ってもおかしくないのが健さんで、こちらは歌に無いでしょ。 ついでに云うと両方とも云わぬのが加山雄三で、彼はどちらも「まいったなァ」ですむ。
旭から脱線したわけではなくこんな4人がそれぞれ素晴らしい個性だと云いたいのだ。
皆、様々な役を演じているがこの個性が揺るがないのは、選ぶ側がこのキャラクターの価値を最も大切にしイメージを尊重しているからだろう。見る側もそれを望んでいる。
さて問題は「最后にもひとつ」である。いったい誰が歌うんだと、怒りたくなるほど始めから終わりまで完璧に貴重なキャラクターをぶち壊すようなフレーズでできている。
お節介、自惚れ、図々しさ、脳天気、自意識過剰、無神経、意地悪、身勝手、強気、そして嫌味、加えて怠惰(順不同それぞれ歌詞のどの部分かあとでよく見てください)嫌な男ベストテンみたいな性格のオンパレードは、呆れ返ってもはや壮観ですらある。
よくぞこんな無茶な歌詞を歌わせるなあと思うほどありったけ放り込んでいるから、恨みでもあるのかと恐ろしくなるほどだ。こわくて歌って下さいと持っていけないが、旭を除く3人にはこれは歌えない 否、歌わない。彼らでは消化不良を起こしてしまう。
私には、何故これほどまで極端なこの歌を、旭が歌うと一切の不安もなく聴けるのか不思議だった。旭の「懐の広さと深さだろう」と云ってもいいのだが、もう少し考えた。 そして歌詞にはないが歌詞全体で、ある一つの言葉を言おうとしている事に気付いた。 本当は彼は最后にもう一つこの言葉を言いたかったのだ、すなわち「ごめんね」である。
実はこの作詞家は一言も云わない「ごめんね」で先達遠藤実に挑戦したのかもしれない。 私は、旭の映画を殆ど見ていないから憶測で云うのだが、多分旭の表情で一番魅力的な カットは、無言で、顔だけが「ごめんね」といっているところではないだろうかと思う。
2003年 雨中の旅「五月雨ワルツ」
2003/04/07

先日、古賀メロディーの根底に「ワルツ」があることを、なかにし礼が指摘していた。
また、ソプラノ歌手・藍川由美は『「演歌」のススメ』(文春新書)の中で、これに触れ 「本来ワルツは、日本の学校で教わるような(強・弱・弱)というギクシャクした
動きではなく、大きな円形の流れの中で、連続したうねりとして演奏されなくてはならない」と書いている。スペースオデッセイの「美しき青きドナウ」を思い出す。
こんな連想があるとまたそれなりの聴き方ができるのが旭の「五月雨ワルツ」である。
駆け落ちの逃避行を芝居仕立てにしているのが「軒先のてるてる坊主」だったり「窓のあじさい」「駅のホーム」で、どれも2人の心象と身の上を反映したメタファーであるが、ここでは宇宙的視点からこの比喩に、とりとめのないイメージをふくらませてみよう。
宇宙の旅には「ハル」というコンピュータが出てくるが、てるてる坊主がコンピュータだったらおかしいだろうか?パソコンの大敵は水である、雨を晴れにするという奇蹟を行う超人なのに顔がないところ、人が作って吊してあげなければ何も出来ぬところも似ている。「照る」は「晴る」にも通じているから「はるはる坊主」ともいえる訳だ。
やっぱり「てるてる坊主」でしょうというなら「インてる」というCPUもあるじゃないか。 コンピュータが咲かせてくれた、計り知れない花の数々を思い知らぬ人はいないだろう。
今はさすらう2人のナビとしてこれほどお似合いの羅針盤はない。
ちなみにこのテルという言葉は「切ってあげテル」「そっぽ向いテル」と各番に登場する。
「あじさい」hydrangeaはギリシャ語で「水の器」という意味だそうだ。窓から見える 球形の水の器といえば宇宙船の窓から覗く地球、ならば「北の宿」はスペースシップだ。 地球を宇宙空間に咲いたあじさいに見立てるなんてなかなか素敵であるが、遠方から 眺める故郷は暗黒のただ中にあって美しくもこの2人のように孤独で淋しそうでもある。
さてこんな2人がやってきた「駅のホーム」は宇宙ステーションということになる。
寄る辺を持てない宇宙空間にぽつんと浮かぶ駅。恐ろしいくらい茫漠たるさすらいだ。
むろん宇宙に雨など降らぬが、こんな空想にふけってしまうような灰色に重く垂れ込めた 五月雨と男女の情感の温もりを歌う旭の裏声はまさに宇宙的な響きに聞こえるではないか。
マイラストソング「泣くなさすらい」
2003/04/08

久世光彦のエッセイに「マイラストソング」というのがある。人間いまわの際に一品なら 何を食いたいかを問うアンケートがあるが、これは「一曲ならどの歌か」というものだ。
旭の「落日」も入っているので買ってしまった。ラストソングといっても記憶をたどり、どんな曲がいいだろうと様々な曲をセレクトしてゆく「歌語り」スタイルなので、いくつも思い入れのある曲目が列び、決められるはずがないのがよくわかって楽しいが、 総じてどれもご本人が歌って泣ける曲、泣いた曲ばかりなのだ。臨終だから当たり前、 めそめそしたい気持ちは解らなくもないが、少しは男らしい決断も欲しいと思う。
誰も知らない所に行くのである、不安もあるし、まだ未練だって残っている。
闇雲に放り出さず正気を保てと励ましてくれよ、感傷でごまかして欲しくはない。
ラストソングはそんな心情をサポートしてくれるような歌が望ましい。
「泣くなさすらい」ご存じ作曲は「落日」の北原じゅんである。私はこちらを取る。
抑えるところ、引きずるところ、いたわるところ、解き放つところ、じつにツボを得た節回し、しかも行進曲を思わせる悲壮感が、男に勇気をくれる、行進曲に男は弱い。
「男ならめそめそするんじゃありません」という母親の声をどこかで聞いているようだ。 これなら少し微笑みながら、旅立てる気がするのである。堂々巡りを断ち切ってくれる ような不思議な力、「悲しいのはわかっている、だから悲しみのまま行け」
そんな声だ。
「思い切る気の 旅の空」「泣いてる俺を もうひとり」このフレーズを女性が書いたということが極めて重要である。男に勇気を与える女性とはこんな人だ。
何故か全部わかっていてくれる人がいるという確信みたいなものも感じる。
さらに 各番に一つずつ「こころ」がカタチを変え見つかる所が女性作詞らしく温かくて優しい。
旭にはめずらしいと言うと意外かもしれないが歌詞・曲ともに本当に美しい歌である。
「周りのみんなが笑顔で迎えるこの世に、おまえは泣きながら生まれてきた。だからこんどは周りのみんなが涙するこの世から、おまえは微笑みながら旅立て。」と
確かではないがチベット「死者の書」にあったような気もする。そんな事出来るか?
泣いてるもう一人の自分の入ったトランクを旅立ちに、置いてゆくことはできない。
それはこの世で生きた証だからだ。
ありがたや、アキラ・クラシック「旅の灯り」Part-1
2003/04/12

さて、どこから語ろうこのビューティフルソングを。実はこの曲は語りたくないのだ。
一言「ここにこういう歌がある」、だけで充分。語ればこの曲の命がダメになる。
「非凡中の非凡」「水の流れ」「人知れぬ深山で、ひっそり流れる川のせせらぎ」。
歌全体がキラキラ輝いているとしか云いようがない。
もう名曲という表現すら埃っぽい。
なにも付いていないのに、不足というものがない真円のような奇跡的歌曲であります。
不足があるとすれば、「Made by GOD」という署名だけだろう。この曲の前では、「鬼がおとなしくなる」といえば少し近いだろうか。そして邪念も失せる天上の旋律。
ヴァンパイヤに対する「聖なる水」、存在自体がもったいなくて他人に教えられないできることなら誰にも聞かせたくない至宝だ。俗曲や雑音に汚れた耳には尊すぎる。
ご本尊、モナリザ、それとも円空の一刀彫、一つなのに全てであるような代物である。
人為の限りを尽くして作ってあるにもかかわらずそこに一点のテクニックも見えない自然物のような姿をしている「利休の湯飲茶碗」に似て、ナンバーワンとか「上中下」「松竹梅」「優良可」という人の世の卑しい序列の外にある空気のようなメロディ。
聞きながらいつも私はこの曲に「小林旭という歌い手がいて、ほんとによかったね」と云ってあげている。「ねっ!やっぱりいたでしょうこの世にはこういう歌手が」と。
私には、たとえストラディバリウスの音色だってこの旭の声には白けるばかりだ。
どんな至上の楽器でも人の声はだせないうえに、まして旭の声は旭にしか出せない。
旭にしか歌えない曲は数々あれど、この歌はアキラ以外の歌手が歌ってはいけない。
この歌を俗人が汚してはならない。演奏、歌、声、メロディー、歌詞、全て超絶。
聴く前と後には、居住まいを正し脱帽して最敬礼だ。
こうまで書くと知らぬ者は、一体この曲がどんな曲なのか否が応でも知りたくなるだろう。 しかし残念ながらここにはそんなあなたが「期待するようなものは何もない」だろう。 この曲が通俗を喜ばせるようなものではないからだ、図らずもその期待があなたの俗人で ある事を証明してしまう。「なんだ、なんの変哲もないただの歌謡曲じゃないか」と。
しかし、考えてみるがいい「何の変哲もないただの石ころ」をあなたは作れるだろうか? 言い換えれば子どもは男と女が造るものではない、「できちゃう」から尊いのだ。
1・3・5・7そして4「旅の灯り」Part-2
2003/04/13

ポール・マッカートニーよ、オリジナルなんてものがそんなに大事か、下らないことだ。
俺が作った、俺が書いた、著作権だ? 
みっともないと思わんか。1000年経って見ろ、残ってるのは作品だけだ。
作者なんて記憶の彼方に消滅だ、名前なんて記号じゃないか。
曲は全部持ってる私は本当に失望だ。
今のあんたは生きててもイエスタデー(過去)だ。
それでもしたいなら控えめにやれ。そのくらいの作法は心得よ。
ままよ自分を越えるもの を作れた事がクリエーターの至福、署名などして作品を汚してはいかん。それに比べて 作ってから、畏敬の念に打たれたか星野哲郎、ビビって(補作)と記すしかなかったか。
私は星野哲郎氏及び叶弦大氏に敬意を表したい、物作りをする人間として、立派です。
この曲はどこどこのだれそれの「人」が作った詞ではない。
「できちゃった」のである。
旭の“旅 旅はいいなあ”とのナレーションにある「旅」とは、事物の表面や変化を唯見て過ぎる観光旅行でも物見遊山の慰安旅行でもない、瞑想やドラッグによる酔狂なインナートリップでもない。このセリフ、旅行会社のキャッチコピーなんかではない。
人生を「所詮」と言ってしまうほどの、重さをもった根元的な「旅」のことである。
一つの変化ある「流れと協調」として語られる「起・承・転・結」4構造の歌や物語と
「○○節」には、4つ以上の番を持つものがあるがこれはバラエティ重視の例外として、旭には限らぬが4番まであるという歌詞は、そう多くないと思う。90%が3番までだ。
「旅の灯り」が4番まであることには重要な意味がある。歌わなければならぬ「旅」が、4つあるからだ。他の歌詞でも4番まであったら、それは必然的なものだと考えてよい。
「3」拍子のワルツに乗って、完璧な「5・7」調で歌われるメロディーに「4」つの詞。
しかし「4」という数は、日本人には甚だ収まりの悪い数でもある。でも4つのテーマはどうしても崩せない。どうするか? ナレーションを加え5つの塊にしているのだ。
もちろん加えたからといってこの科白が断じて「蛇足」でないことは言うまでもない。
では、旭に語らさせてまで「いいなあ」と言っている4つの「旅」とはどんなものか。
ロールプレイングゲームに見立てて、さあ出発しよう。「1」の説明は後回しにして。
求め、尋ねて、追う、探す「旅の灯り」Part-3
2003/04/13

いよいよこの曲の「解体」にかかろう、語り始めたからにはここまでやらぬと収まらぬ。 なんと言おう、どこにでもあるこんな平易な単語から豊饒な収穫をもらえることの驚異。 個性を一切主張しない表現は「浪花節」みたいにあざとく感情をくすぐることがない。 同時にメロディーもこの歌詞の核を見事に止揚して「癖・特長」の片鱗さえ見せぬ。 「不易流行」という言葉があるが、流行歌の対極にあるこれはまさに本物の「不易歌」だ。
いっそ旅に生き、旅に死した芭蕉に語ってもらいたい旭の「旅の灯り」の1~4番だ。
「なにかどこかに ありそうな」ものとは「青い鳥」に代表される、しあわせである。
1番は、しあわせを「求め」る「こころと永遠の旅」。
そしてアイテムは「熱情」である。
そのへんに「いる」おやじではなく、大地のように「ある」母、故郷、喪失した原点。
2番は、母を「尋ねて」ゆく「生から死への旅」。アイテムは「無情」別名を愛という。
ぼやぼやしていてこの手を「逃げた鳥」である異性を捕まえなければならない獲得物語。 3番は、逃げた異性を「追いかけ」る「さすらいと恋の旅」。アイテムは「非情」である。 互いに思いやる気持ちの通じ合う心強い道連れ、世渡りは、そのこと自体に意味がある。
4番は、語る「友・仲間」「探す」ための「出会いと別れの旅」。アイテムは「同情」

整理してみよう、以下のようになる。

1、何処かに、いる?「幸せ」求め  
こころと永遠の旅  熱情(ああ美しき勘違い)

2、存在として、ある「母」尋ねて  
誕生から死への旅  無情(言い換えれば愛情)

3、無力だと、逃げる「異性」追う  
さすらいと恋の旅  非情(捕るか取られるか)

4、交わり、語る「友・仲間」探す  
出会いと別れの旅  同情(分身への思いやり)

見落とせないのが、各番をつなぐ間奏の比重である。各間奏タイムを聴けばその長さが「1(長)2(短)3(長)4」となる。
つまり2、3番を、1、4番とは区別したいのだ。
もちろん1番と4番も分離したい。何故か? 
2番3番の「母」と「異性」はいわずとも
一つ(一人)しか有得ないものだ、それに比べ1番4番の「しあわせ」と「友人」は
多種多様。従ってわざわざ「一つの灯り」「一人旅」を配し全てに「1」を忍ばせている。 1・3・5・7 この歌は、割り切れぬ悲しくも尊い人生の「バイブル」だ。
さっぱりわかりません「みだれ雲」
2003/04/15

「おまえの書く詩は、品がいいね」と親父が言ったそうだ。
5000曲以上も書き続ける作詞家の創作の源が、実は親父のこの一言だったりするのだ。
どうだい親父、あんたにこんな詞が書けるかい?おれはうまいだろ。でも…
親父がいなくなったいまでも詞が出来るたびに「今度も品よく出来ただろうか」と自問自答している自分がいる。阿久悠だ。いい話だ。
「あんた、マブイ顔して男勝りのとっぽい詩を書くね」たぶんそう言われたんだと思う。確かに彼女は、小娘だったが、あんちゃんに「おっ」と言わせる詩が書けた。
そして「そのまま」作詞家になった。阿木燿子だ。不幸なことだ。
性格も良くて可愛くて宇崎さんの最高の奥様だから女性としては100点だと思う。
頭が良くて、閃きがあり器用な所もあるとは思う、がこの人の詞を私は、かわない。
理由は簡単だ、内容が無い。無いのはいい、有りそうに見えるのがまずい。
いくつか気の付く所を挙げてみよう。
沢山あるが、批判じゃないので主なところだけだ。

矛盾表現をレトリックだとの勘違いが多い。不自然フレーズに言葉と戦った格闘の痕跡がない。水増し人間と社会に対して深い洞察と含蓄がない。ガリ勉血と涙、喜びと悲しみ、郷愁と感動を欠く。
お手軽具体的に歌詞も見てみようか
酒と男に溺れている女が、少なくなったと嘆いているような男って、いるだろうか?
少ないどころか世の中「淋しい女」だらけ。
むしろ、どうせと所詮が似合うのはこっちだ。
男が酌むなら日本酒だ、琥珀の酒はブランデーだよ。
判じ物とはクイズのことだ、学校はクイズだが、世の中はクイズじゃない。
「つじつま合わなきゃ 理も立たぬ」が正しい、双方は同じものだからだ。
はかない女の説明が長すぎる、路地に咲く花は儚いどころか逞しい。桜の方が儚いよ。
「ごっこ」は遊び、「とことん」は本気、同時に成立するものじゃない。
「みだれ雲」といわれて、どんなものか考えるほどにさっぱりイメージが湧いてこない。
頭だけで捏造し、雲をしみじみ見上げたことがないからだ。でもありそうだから恐い。
雲には決まったカタチがない、だから雲だ、カタチがない物にたいして「乱れる」という 事自体ありえない、これはシュールとはまったく異なる。これをむちゃくちゃと言う。
無茶苦茶でも、もちろん旭はキッチリ歌う、歌を生かす。
旭は「歌語り」など絶対やらぬ。